15周年アンソロ寄稿

「マカロンや焼き菓子はひとつだけなのに何百円もするけど、小さいケーキならそれなりの値段で宗君にたくさん食べてもらえるだろ?」
甘いものが大好きな彼に、大好きな洋菓子店のケーキを贈る。それが僕にできるささやかな感謝の気持ちなのだ。
「私は、あなたのその気持ちだけでも嬉しいのですよ」
背後からそっと頭を撫でられた。
「琥珀は優しい子だから。……でも、肩の力を抜いてもいいのですよ?」
そう言うと宗二は三つ編みを指先でつまみ、頬をくすぐった。
こそばゆさに振り返ると、はにかんだ彼の笑顔が目前にあり。
急に熱くなった頬に、恋人の優しい手が添えられた。
「……今書いている作品は、来月の文学賞に出そうと思っています」
真剣な眼差し。つられて僕の胸まで鼓動が高鳴り、目線が外せない。
「まだあなたは未成年ですから親の同意が得られない以上、結婚はできませんが……」
壁に飾られたリボン、ショウケースで順番を待ち輝く色とりどりのケーキ達。店内に漂う砂糖と木の実と果実の香り。
「……入賞したら、私と婚約していただけますか?」
心臓がどくんとはねあがり、足の先から沸き立つこそばゆいときめきは、まるで身体中の血が甘い甘い炭酸水になったようで。
「そしたら、この飴細工をあなたに贈れますね」
いたずらっぽく笑い、宗二は僕に口づけた。砂糖菓子を舐めるように、唇をそっと舌先でなぞる、いつもの愛情表現。
夢のような洋菓子の甘い世界で、夢ではない幸せの味が身体中に広がった。

そして、それは遠いかつての思い出。
恋人は約束通り文学賞を取った。しかし婚約した次の日、乗っていたタクシーがトラックとの大規模な事故を起こした。
同乗していた双子の弟は区別もつかないほどの状態で発見され、宗二も何日も目を覚まさなかった。
意識を取り戻した宗二は記憶を全て失い、僕が誰だかもわからない状態だった。
そして、彼の家の者により僕らは引き離された。僕は様々な手段で彼を探し続けたが……再会は、『僕の恋人の宗二』との再会は遂ににならなかった。
「ラフカ。……用は済んだ、そろそろ都庁に戻るぞ」
資材を手にした男……衛藤巳鷹がこちらに声をかける。
黄色い特殊素材のスーツ、高級そうな眼鏡。
僕はこの男が、僕の継父が嫌いだった。
言いたいことを素直に言わない、僕によく似た所も、宗二との仲を反対していることも。
「もう朝だろ。こんな時間まで付き合わせるなんて……」
「夜間のフロワロの花を調査する必要があった。ついてきたいと言ったのはお前の方だ」
「うるさい」
朝日を背に線路沿いに歩く。ふと、衛藤がフロワロの花束を片手に持っていたことに気がついた。
「衛藤……なにそれ」
「サンプルを持ち帰る必要があった。だが、持参したケースを魔物にやられた。毒性は、都庁入り口で自衛隊に引き渡せば問題ないだろう」
「そうじゃない!その、手だ!」
フロワロ……ドラゴンの領域を示す花は、強い毒性を持つ。
いくら耐性を持つとはいえ、指先の露出した手袋で茎を掴んだ衛藤の手は爛れ、痛々しい形相を見せていた。
「あんた……馬鹿だ!銃を使うくせに!手が資本の癖に!」
自分ならまだ、戦闘に指の繊細な作業は必要ない。また、超能力により生まれつき尋常ならざる治癒能力を持っているから、傷のひとつやふたつ、大したことはなかったはずだ。
「なんで僕に持たせない……!」
「親だからだ」
ごく当たり前のように、そういい放つ横顔が嫌い。
「娘の代わりに、とか父親だから、とかそういうのやめてよ!僕はあんたと血も繋がってないのに!」
わからない。衛藤が、わからない。
どうして、数ヶ月前に会ったばかりの僕にこんなことをするのだろう。
再婚相手の連れ子だから?
僕がS級の超能力を持つから?
「……やっぱり、嫌いだ」
レンズに反射した朝日が眩しくて、衛藤がどんな顔をして僕を見ていたのか遂にわからなかった。

翌日。
僕と宗二は、廃墟と化した街を歩いていた。
宗二……今僕の隣にいる人間は、確かに朔満宗二だ。
桜の花びらを抱きしめたような髪も、赤く燃える焔のような瞳も、幾度となく確かめ合った遺伝子も、同じ。
ただひとつ違うのは……彼には記憶がなかった。
いや、正確にはある。彼のもうひとつの人格、『満』に。
捜して捜して、やっと見つけた彼は二重人格だった。
血を浴び、自らを殺め罰することを至福とする狂人の満。そして無い記憶に悩み、贖罪に生きる朔。
二人は、ちょうど満ち欠ける月のように入れ替わり現れ、朔満宗二として生きているのだった。
線路沿いを東に向かう。開けた道を左に曲がり、桜並木の川に沿って。
……あの日、一緒にケーキを買いに行った道順でも、隣の男は、朔は何も言ってくれない。なにも感じない。
「朔ちゃんは、なんでムラクモに入ったの」
朔ちゃんを嫌ってはいけない。朔ちゃんは宗二だから。朔ちゃんを愛してはいけない。朔ちゃんは宗二じゃないから。
……それが、変わり果てた朔満宗二と再会したときに、自分に課したルール。
「人の役に立つため、なんて言ったら笑いますか?」
だから、こんな当たり障りのない会話しかできない。
「笑ってもいいなら、笑う。そんなの、だれも信じないよ」
「わかりますか」
「うん」
嘘をつくとき瞬きする癖は、かつての宗二にもあった。こんなことまで覚えていた自分に、腹が立つ。
「……本当は、来たくなかった。出来ることならあの精神病院で、あのままひっそりと死にたかった。……誰も、何も覚えていない。記憶がからっぽの私は、この桜の木以下でした」
すっかり葉桜になった桜の木を、朔は撫でた。花は散り、フロワロに覆われてなお生きている桜の木。一度死に、記憶を失ってなおここにいる宗二。
だとしたら、僕は何?
「痛いのは嫌です。でもそれ以上に、戦うのが嫌でした。そんなとき満が言ったのです。『取引をしよう』と」
満には、痛覚が無い。それ故常人なら失神してしまうような痛みを受けながら立っていられる。文字通り肉を切らせて骨を断つ、満の戦闘スタイルはとても痛々しく……強力だ。
「私が記憶を失った代わりに、満は痛みを失った。私が痛みを受ける代わりに、満は全てを覚えている」
それが、二重人格の取引です。と朔は笑った。
顔面はいつも青あざや裂傷を隠すガーゼと湿布に覆われている。衣服の陰から見える首筋には沢山のためらい傷と、まだ新しい包帯。
……どうしても見ていられなくなって、僕は歩みを進めた。
衛藤も、朔も……どうして、自ら痛みを受けに行くんだろう。
そんなことしなくたって、この世界は十分に……棘だらけだ。

「ここに、来たかった」
今日の探索の表向きは、まだ使える物資の回収。しかし、僕にはもうひとつの目的があった。
裏路地の洒落た洋菓子店。朔満宗二と、かつて訪れた場所。
……ここに、朔を連れてきたかったのだ。
ここまで来るのも大変だった。電柱は倒れ、コンクリートは亀裂が入り、フロワロが咲き乱れる。
竜の領域を示す花はパッチワークのように人間の世界を侵食し、喰らう。
洋菓子店も例外ではなく、看板は真っ赤に染まり、シャッターが中途半端にしまったまま自動ドアは閉鎖されたまま動かない。けれど、建物としてはちゃんと元の形を保っていたことに少し安堵した。
「裏口、壊せるかな。ガラスを壊すのは危ないし」
「わかりました。やってみましょう…はあっ!」
朔が裏口の錠の辺りを小突くと、あっけなくドアが開いた。中は薄暗く、肌寒い。
特に荒れた様子もなく、静かにその時を止めていた。もしかしたら、ドラゴンが襲来したあの日、偶然定休日か何かで保存の利く焼き菓子以外は店頭に並べていなかったのかもしれない。
……そして、店の中央に僕の目的のものはあった。
「これは……飴細工?」
「うん。飴細工……だったもの」
割れたガラスケースの中、無惨に形を崩した飴細工。
大きな骨組みは折れ、ガラスのような欠片は粉々になって散乱している。
さらに細かい結晶は溶けてまわりと同化しもはやかつての面影はない。
「朔ちゃんは……このケーキ屋さんのこと、覚えてる?」
「……」
「このガラスケースの中に何があったか、覚えてる?」
「…………ごめんなさい」
「僕らが何を話したか、覚えてる?」
「……ごめんなさい」
「なんで朔ちゃんは、痛くて平気なの?そんなに傷だらけになってまで、思い出したくないことだったの!?」
「ラフカ!」
突然の大声に、体をすくませた。紅い朔の目が、僕を見据える。
「私だって……できることなら、痛みを受けたくなんてありません。でも、私が全てを思い出したら……きっとラフカは壊れてしまう。今まで以上に、辛い思いをする」
「……それでも!」
朔の肩を掴んで、強引に口づけた。あの日のように、唇をなぞるキス。
つま先立ちで不安定な体がもつれ、ショウケースに押し倒したかのように倒れこむ。
いつの間にか、朔の手が背に回されキスも舌先を絡め合う深いものへと変わっていた。
……茨の中のお姫様は、口づけで目を覚まし、眠れる死の城は活気を取り戻す。
唇を離したとき、王子様は目覚め世界は元通り。
なんて幻想、起こるわけもなく。
どんなに舌を絡めても、どんなにきつく抱きしめても、崩れた飴細工は戻らない。愛した宗君は帰ってこない。
やっと僕らが体を離したのは、朔が僕の涙に気がついたときだった。
「……ごめんなさい。朔ちゃん。朔ちゃんは、朔ちゃんだよね……」
「いいんです、ラフカ。私だって、そんなにまで貴方に愛された、朔満宗二にお会いしたいですから」
「朔ちゃん……」
「いつか平和になって、街も元通りになって。そしたら、このガラスケースの中の飴細工を、新しく貴方に贈りましょう。……きっと、大切なものだったのでしょう?」
それから先、僕がなんて言ったのか覚えていない。
ただ、ひたすら泣きじゃくる僕を朔は抱きあげ、都庁まで連れ帰ってくれたことはわかった。
そして、なにがあったのか知らない衛藤が泣き腫らした僕を見、朔を殴ってしまい。
慌てて僕は朔の傷を治し、継父の誤解をといて、今日はじめて僕は笑うことができたのだった。